人生の暇つぶし

2016年にリタイアしました。アーリーリタイアや資産運用、旅、読書などのネタを徒然なるままに書き綴ります。

これから人生が始まる人と人生を終ろうとしている人

先日、昔の友人たちと忘年会をしてきました。
その時めでたい報告が2つありました。

一人はようやく大学への就職が決まり国立大学の准教授になりました。
貧乏生活からの脱出です。
私は学生時代に大学に残ることを考えていたのですが、食べていく自信もなかったしそこまで研究が好きなわけでもなかったので院に進学する前にさっさと諦めました。
同級生でとびぬけて優秀だった友人たちは20代から30代前半までに国立大学クラスの准教授になっていました。
大学への就職は運や人脈の部分が大きいと思いますが、有無を言わせないレベルの優秀な人間はやはり就職が早かったように思います。
しかし私と同じような凡人クラスは中々就職先がなくて貧乏生活をしています。
半分以上はまだ非常勤講師です。
そんな中で小学生からの付き合いの友人が地道に頑張り准教授になれたので本当に嬉しく思いました。
ちなみに私の友人で超有名で学会に多大なる影響力を持つ大学教授の息子はやはり博士課程を終えるとすぐに就職できていました。
また、指導教官でもあり旧帝大の有力な教授の娘と結婚して、その教授の研究室の准教授になった幼馴染もいます。
いまどきそんなことがあるのかとびっくりします。

もう一人は女性で40歳にして妊娠してもうすぐ母親になります。
彼女は一橋を出て大企業のバリバリのキャリアウーマンですが、仕事のし過ぎで2度倒れています。
1度は命に係わるかもしれないと言われたほどでした。
そのため結婚も遅かったのですがようやく結婚して念願の妊娠が叶いました。
彼女も小学生からの付き合いなので本当にうれしいです。
特に私の高校時代の同級生でもある東大生の彼氏からトルコ人、ロシア人まで数々の男遍歴を見てきたので…。


それにしても彼らはこれから新たな人生が始まるのです。
もし人生に成長や、何かを育むという目的があるのなら、彼らには未来が開けています。

翻って私は来年いっぱい働いてリタイアするつもりと報告しました。
毎年会うたびに仕事に飽きたしさっさとリタイアしたいと言っていたので、特に感想もなく「ようやく資金にめどがついたんか」とか「お前はそもそもサラリーマンには向いてないもんな」というぐらいでした。

彼らがこれから新たな人生を歩み始めるのに対して私は人生を終えようとしています。
私はリタイアすることは人生が終わることと考えています。
残りの時間はただの暇つぶしであり、社会の構成員としての活動は最小限になるからです。
何かを生産するわけでもなく、何かを次世代に残すわけでもありません。
生きることと人生を歩むことは別です。
趣味なんてものも他人に影響を与えないレベルならばただの暇つぶしでしかありません。
定年退職後を余生というのはやはり何らかの活動を止めて余った人生を過ごすからでしょう。

人生というのは社会が定義するもので、その社会からできるだけ離れて隅っこのほうに移動することは人生なんてものが終わり、ただ自分の生きる時間が残るだけです。
その意味のない時間が私には憧れであり愛おしい時間のように思えます。

子供のころから高校生ぐらいまでの友人は皆似たような人間ばかりでした。
小中学生の時は育った環境が同じです。
両親は似たような職業で、学校の先生は当然同じで、通う塾や習い事も同じです。
高校も出身地域は広がりますが、学力が同じで似たような価値観を持つ人間が集まります。

それなのに40歳になった今では皆が多様な生き方をしており不思議です。
高校時代の同級生では、大学の先生、キャリア官僚、医者、弁護士、起業で成功といった勝ち組がいる一方で、売れないミュージシャン、ヒモと競馬とパチンコで暮らし働いたことがない友人、キャリア官僚になった後うつ病になった友人、さらにはすでに2人が自殺しています。
他にはNGOで働いていたり、小さな学習塾を開いたりしている人もいます。
暮らしている場所も地元から離れない人もいれば、商社やJICAに入りいろいろな国で暮らしたり、海外で起業したり、外国人と結婚して相手の国に住んだり、留学してそのまま住み着いていたりしています。
もちろん大半は日本で暮らしており、平凡なサラリーマンか親の家業を継いでいます。

今後も会うたびに友人たちは楽しいことや辛いことがあったと私に報告してくれることでしょう。
人生は山あり谷ありなので色んな事が起きて当然です。
そして私には報告することはもう何もないのでしょう。
人生が終わっているので何も起きないからです。
今年も無事に平穏に寝て暮らしていたというぐらいです。

中島義道の著書に「人生を半分降りる」というものがあります。
私から言わせると彼は人生を全然降りていません。
それどころかブルドーザーのように音を立てて周りを蹴散らして人生を歩んでいるように見えます。
私は人生を7割ぐらい降りて、50年後ぐらいに訪れる死を待ちながら暇つぶしをして暮らすつもりです。
そしてそんな人生であれば産み育ててくれた両親と豊かな国に生まれた幸運に感謝して生きられると思います。

・人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (中島義道)


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[ 2013/12/01 12:42 ] アーリーリタイア | TB(0) | CM(14)
人生は社会が定義するものなんでしょうか?
突き詰めていくと個人に行き当たるものだと思っています。自分でコントロールできるのが人生のメインコンテンツだと思いたいですね…。
[ 2013/12/01 19:52 ] [ 編集 ]
羨ましいです。
41歳でリタイアですか。羨ましいです。私は今年48歳。
40代でのセミリタイアは無理なので、何とか50代の早いうちにセミリタイアを目指しています。
人生が終わっていると書かれていますが、人生、価値があることをしなくてはならないなんて決まりはありません。
生きたいように生きればいいと思います。
[ 2013/12/01 20:53 ] [ 編集 ]
>成為さん

すいません。かなり端折りすぎました。
人の生き方云々と言ってみたり、人生という概念が他者を意識しており社会的産物ではないかという意味です。
なので人生を終わるというのはそういう社会的な価値から逃れて「人生」という言葉を意識もしない淡々とした生活を送るという意味で考えています。
完全に社会から逃れることは不可能なので7割ぐらい降りるのがいいのかなと。
極論を言えば無人島で一人で住んでいればそもそも人生をどうしたいというようなことを考えることはないというようなことです。
[ 2013/12/01 21:04 ] [ 編集 ]
>見知らぬ男さん

>何とか50代の早いうちにセミリタイアを目指しています。

あと数年ぐらいですね。
頑張ってください。

>人生が終わっていると書かれていますが、人生、価値があることをしなくてはならないなんて決まりはありません。
>生きたいように生きればいいと思います。

そうですよね。
生きたいように生きるしかないですよね。
人生が終わっているというのは社会的な価値に縛られる生き方を終えるというような意味で使いました。

成為さんからもコメントがありましたが、言葉の使い方が不明瞭な記事になってしまいました。
[ 2013/12/01 21:21 ] [ 編集 ]
人生って自分を土に還す過程のような気がします。
例えば原発は確かに今必要で意味があるんだけど、何万年単位で放射性廃棄物が残って手に負えないみたいなことってあるし。
アインシュタインみたいに優秀な人も、幕末の志士みたいに情熱的な人も、余分な能力など発揮せずだまって普通に生活して何も残さず死んでくれてもそれはそれで差し支えなかったんじゃないかなって思います。
[ 2013/12/01 22:17 ] [ 編集 ]
私の同級生の人生も、
らいくむさんのほどではないですが、
やっぱりバラバラです。
不思議と言えば不思議ですし、
そんなもんだと言えばそんなもんだという気もします。
( ̄∇ ̄;) ハッハッハッ


>>私はリタイアすることは人生が終わることと考えています。

そんなふうに考えたことはなかったなあ・・・・・・。
リタイアしなくても人生ですし、
リタイアしても人生、
どれも一興。
ほっほっほ♪ ( ̄▽+ ̄*)

[ 2013/12/01 22:39 ] [ 編集 ]
>yamyasさん

>人生って自分を土に還す過程のような気がします。

私もその境地に近づきつつあるように思えます。

>アインシュタインみたいに優秀な人も、幕末の志士みたいに情熱的な人も、余分な能力など発揮せずだまって普通に生活して何も残さず死んでくれてもそれはそれで差し支えなかったんじゃないかなって思います。

なるほどそういう考えもありますね。
でもその場合は誰か別の人が代わりの役目を果たすために出てくるんでしょうね。
[ 2013/12/02 00:15 ] [ 編集 ]
>mushoku2006さん

>不思議と言えば不思議ですし、
>そんなもんだと言えばそんなもんだという気もします。

20年も別々の世界にいるのですから当たり前ですよね。
でも集まったときは昔の気持ちに戻ってしまうので不思議な感じです。

私は30代中盤ぐらいまでは結構頑張ってきた(つもり)ので、リタイアはなんか終わった感が強いんですよね。
なのでやっぱり余りの人生なのかなと。
[ 2013/12/02 00:29 ] [ 編集 ]
リタイアする人は仕事でやり尽くした感とか、飽きたとかそういうものがある人が多いのでしょう。

私はそうですね。
ちなみに会社は3社、結婚も一度しています。

再婚しようと思うこともありましたが、子供がいるのでなかなか難しくて今は自分の人生のコストと子供へのコストを日々計算しながら生きています。

もともとそういう算段するのが好きだったので趣味をずっとしてるみたいなものです。

[ 2013/12/02 14:54 ] [ 編集 ]
>とまさん

3つの会社と一度の結婚をしているのですか。
私は会社は4つですが、結婚も同棲も経験せずに終わりそうです。

>もともとそういう算段するのが好きだったので趣味をずっとしてるみたいなものです。

私もそうです。
投資そのものにはあまり興味ないのですが、そういう算段をするのは趣味みたいになっています。

人生が終わるというのは積極的に社会に関わろうという気持ちがなくなって、精神的に自己完結するというイメージですね。
終わるというよりはやっぱり降りるというほうがイメージが近いです。
小屋暮らしをしている人もこのような心境なのではないでしょうか。
[ 2013/12/02 23:42 ] [ 編集 ]
社会が必要とする人間が前世紀とは変わったのでは
人生の捉え方は人それぞれ違うものだと思いました。
人が働くのは他人に必要な財やサービスを生産(供給)するためであり、社会に役立つためというのはその通りです。しかし、自分が働かなくても供給に問題がないなら、自分が働く必要は社会的にも発生しないというのが自分の考えです。
仕事(財、サービスの生産行為)を人生そのものと捉えるのはやはりその人の考え次第ではないでしょうか。仕事を人生と思うなら、それはそれで全く問題はありません(というより素晴らしい)。
ちなみに自分は働いて社会に参加することが自分の人生とは思っていません。というわけで自分もリタイア目指しているわけですが、いまだ達成できていません。

20世紀以前の供給不足の世界では、働けるのにリタイアなんて反社会的な行為に違いないでしょうが、物がありすぎて働く人間が有り余っているのですから、働くのをやめて消費に専念するとしても社会的役割は果たしているのではないでしょうか。デフレの世の中に真に必要なのは消費をする人間です。
[ 2013/12/23 17:47 ] [ 編集 ]
>ケンぺスさん

社会的役割を考え出すとおそらく答えをだすことは不可能ですし、答えを出してしまうと役に立つ人間とそうでない人間という区分が生まれるのではないかと思っています。

私は社会的ルールさえ守れば社会にたいする責任というようなものは考えなくよいという考えです。
社会の真ん中や隅っこなど立ち位置を自由に決めたり移動したりしていけば良いし、その移動がより広範囲かつ容易になるということが社会の進歩ととらえています。

ちなみに私は需要が不足するという状態が経済学的にほんとにあるのかと思っています。
需給のミスマッチがあるだけのように思えてなりません。
[ 2013/12/23 23:11 ] [ 編集 ]
無用の用
「無駄の中に宝がある 」根本敬

「家計簿を診断するという番組などで、家計の専門家と名乗る人が「この支出は無駄だから削りましょう。我慢してもらいましょう」と言う。ここにはとても重要な示唆が含まれているのですが、削っている「無駄」には、実は伸びしろというか自分の新しい道を拓(ひら)く可能性があるのです。 」荒俣先生

映画「無能の人」劇場予告 - YouTube
www.youtube.com/watch?v=c2lVZ2d_bKw
[ 2014/04/21 00:23 ] [ 編集 ]
>糸色 望さん

無駄から何かが生まれることは確かにありますよね。
でもそれは結局無駄ではない無駄をできる人だからこそなんですけどね。
[ 2014/04/21 22:50 ] [ 編集 ]
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