人生の暇つぶし

2016年にリタイアしました。アーリーリタイアや資産運用、旅、読書などのネタを徒然なるままに書き綴ります。

記憶

暇でボーっとしているときはよく昔のことを思い出しています。
昔のことでよく覚えているのは嫌なことのほうが多く、楽しかったことはあまり思い出しません。
嫌なことのほうが脳に対する刺激が強いのかよく覚えているし、思い出すことによってさらに記憶が強固になっていくように思えます。
嫌なことはすぐ忘れるタイプの人もいるようで、超ポジティブに生きている私の友人は嫌なことはすぐ忘れてしまうそうです。
記憶が人格の統一性を保つとしたら嫌な記憶ばかりだと人格も歪んでしまうかもしれません。

個人の記憶は個人の人格を形成しますが、民族の記憶、つまり歴史は民族の性質を形成します。
ユダヤ人であれば太古から続く放浪の歴史、アメリカであれば自由を基礎にした240年程の歴史、中国であればアジアの盟主としての歴史など。
民族も苦難の歴史が続くとそれを慰撫するために例えば選民思想などが現われやすいのかもしれません。

個人の記憶は脳神経の回路の中に刻み込まれ、民族の記憶は文化、慣習、口伝、文字・映像資料などに刻み込まれています。
この記憶は厄介なもので意図するかどうかに関わらず常に改変されています。
他人や他国と共有する記憶は利害が絡むと常に紛争になります。
そこで例えば契約書や条約のように改変が比較的困難な制度がありますが、個人や民族の存在意義そのものに関わることもあり紛争は繰り返されます。

私は自分の中の記憶を探りながら自分のアイデンティティはどういうものかを分析して遊んでいます。
思い出すという行為はどういうことなのか私は不思議でなりません。
私は動画よりは静止画で思い出していますが、音声はワンシーン分流れます。
静止画と言っても映像が現われてくるのではないような気もします。
目を開けていれば現在の映像を認識しますし、目を閉じていると真っ暗です。
なので存在を認識している感覚でしょうか。
色についても同様で青色なら青色の映像ではなく青という存在を認識しています。
また一つの場面の一部しか覚えていないことが多いです。
小学校1年のときの唯一の記憶は担任の先生がおにぎりを握ってくれている場面ですが、ご飯を握っている先生の手しか思い出せません。
脳神経科学などだけでなく哲学などの本でも記憶についてよく言及されますが、存在の基礎となる記憶について不思議に思っている人は多いのでしょう。

人に人生で一番最初の記憶を聞くことがよくあります。
私は明確に覚えており、幼稚園に入る前の祖父がなくなった日の記憶です。
最初は祖父が会社から帰ってくるのを母親と一緒に駅に迎えに行っておもちゃを買ってもらう場面です。
次は祖父の家で夕飯を食べているとき、向かいに座椅子に座っていた祖父が調子が悪いと訴える場面です。
ここで不思議なのは祖父の顔は全く覚えていないのですが、座椅子の形と色をはっきり覚えていることです。
最後は祖父の家の階段のところで母親から祖父がなくなったことを知らされた場面です。
葬式など他のことは全く記憶にありません。
子供ながらに身内の死に深く感じることがあったのでしょう。

ところで母親にこのことを話すと母親は覚えていないといいます。
ある程度覚えてはいても私の記憶が正しいのかどうかは分からないようです。
私の記憶が正しいかどうかは証明しようがありませんが、私の人格を形成する一部であることは確かです。
個人であろうと民族であろうとその拠って立つものは非常にあやふやなものです。
そのため容易に改変できるし、何らかのきっかけで意味を逆転させることも出来るのです。
大学デビューという言葉がありますが、これは交流グループが変わることで過去の共有する記憶を封印することが出来るからです。
記憶喪失になった人の人格が変わる例はよくありますが、人でも民族でも人為的に記憶を変えることもまた可能です。

最近は記憶しておくことがないぐらい単調な毎日を送るようになっています。
そのぶん時間が過ぎていく感覚も早くなってきているようです。
この10年ぐらい全く人格に変化がないのは記憶に変化がなく、追加された記憶が少ないからのように思えます。
リタイアするとさらに単調な毎日と出会いのない毎日になるでしょう。
新たな記憶が必要ないならせめて本で学んだことの記憶はとどめておきたいのですが、どうにもそううまくは行かないようです。

そして将来両親が亡くなるとおそらく私の存在を記憶する人もいなくなります。
弟と妹の私に対する記憶と両親の私に対する記憶は全くレベルが異なるでしょうし、友人程度であればなおさらです。
そのとき私が生きていても社会の記憶からはほとんど無くなります。
せいぜい住民票や免許証上の存在程度となるでしょう。
果たして私が存在していると言えるのでしょうか。
しかし私にとって社会とはそもそも私の中の記憶にしかなく、社会が私を記憶し認識しているとははじめから思っていないのです。
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[ 2013/10/14 22:00 ] 雑感 | TB(0) | CM(6)
無題
実は私は東京に10年ほど住んだ事があります。その実感でいくと、関東圏は実にひとつの国くらいの経済圏だと思います。「東京に出ていける」所に住むというのはひとつの魅力だと思いますよ。明石とかは(姫路とは違って)どちらかというと固有の地方色を感じる場所というより都市に対するベッドタウン的な所ですね。むしろ地方色を感じる(市場で売ってる魚をみて感じたり・・ETC・・明石では明石の魚は売ってません)のは福岡とかでしょう。  ・・・オマケの話・・・神戸市北区の一部は三宮とかに原付でもすぐ出れる割には不動産とか安いですよ。
[ 2013/10/16 17:57 ] [ 編集 ]
>うすいただしさん

>「東京に出ていける」所に住むというのはひとつの魅力だと思いますよ。

そうですよね。
私は東京が好きなので23区は無理でも周辺地域はターゲットです。


明石は完全に神戸圏ですもんね。

福岡はどうなんでしょう。
行ったことがないのであまりイメージがわきませんが、福岡圏でも一つの国以上の経済規模ですよね。
東京に住んでいますからどうしても地方都市のイメージを持ってしまいますが。
[ 2013/10/17 00:32 ] [ 編集 ]
その地域の収益物件における利回り設定の相場はその地域の総合的な経済力のひとつの指標になると思う。いい例が北海道とかでしょう。「健美家」とかのサイトみても20%とか普通に出てますよね。場合によってはインフラの維持がしんどくなってる場所があちこち出現してるのかな。
福岡は知人から聞いたり業界紙読んだりする範囲では利回り設定は大まかには高めといえます。アジアへの窓口として今後発展し変化するかもしれないけど。


[ 2013/10/17 09:40 ] [ 編集 ]
>うすいただしさん

北海道はそうでしょうね。
札幌でも利回り高そうです。

東京圏でも15%ぐらいなら結構ありますね。
築年数が古いということもあるのでしょうが、維持費を考えるなら売ってしまいたい人が多いのでしょうか。
1Rの中古の場合は修繕や建替えなどの問題がやっぱり気になります。
私が所有しているマンションは半分はファミリー物件で資産の維持に対しての意識が高い人ばかりで何となく安心感があるのですが。

確か福岡市は人口が順調に増えていて神戸市を抜きそうなんですよね。
リートなどが仕入れる大規模物件はすでに高値になっているのはニュースで見聞きします。
[ 2013/10/17 22:36 ] [ 編集 ]
福岡だと九州の身近な旅行を楽しめてよいかもしれないですね。原付できままに旅行したりとか・・・千葉とかはどうなんですか?

[ 2013/10/17 22:58 ] [ 編集 ]
>うすいただしさん

千葉は住みやすいですが便利なところは家賃が高いです。
神奈川のほうが安いですね。

太平洋沿岸は魚もおいしく野菜も新鮮らしいのですが、東京にでるのに遠すぎるのでちょっと不便です。
[ 2013/10/18 00:06 ] [ 編集 ]
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