人生の暇つぶし

2016年にリタイアしました。アーリーリタイアや資産運用、旅、読書などのネタを徒然なるままに書き綴ります。

船戸与一さん死去

最近メディアで接することの多かった有名人が次々と亡くなっている印象があります。
自分がそれだけ長く生きているということでしょう。

最近の高齢者は元気で80歳ぐらいになっても活動的な人が多いため突然亡くなる印象があります。
愛川欽也も最近までテレビに出ていたし、去年亡くなった蟹江敬三もぎりぎりまで俳優を続けていました。
政治家も亡くなる直前まで政治活動をしている人が多いです。
最近企業の経営陣が若くなってきていますが、70歳を超えても現役の経営者もたくさんいます。

さすがに学者では70歳を超えてレベルの高い仕事をしている人はほとんどいないでしょう。
学生時代に丸山眞男の教えを受けた教授と話していて、とっくに丸山は亡くなっているものだと思って話して怒られたことがあります。
丸山は1996年に82歳で亡くなっています。
レヴィ・ストロースも亡くなったときには、まだ生きていたのかとびっくりしました。
2009年に100歳で亡くなっています。
二人とも高齢になってから生産的な仕事は当然していないので遠い過去の人というイメージを持っていました。

そして船戸与一が今月に71歳で亡くなりました。
2007年から刊行が始った「満州国演義」を今年9巻で完結を迎えたばかりでした。
絶筆とならなかったのはファンにとっても嬉しいことでしょう。
しかしもう少し生きて執筆をつづけて欲しかったです。

私は高校、大学時代はエンターテイメント小説では船戸与一が一番好きでした。
彼が描く冒険小説は若かりし私には日常の退屈さ、将来待ち受けている退屈な人生から目を背けることができる世界でした。
一番のお気に入りだった「猛き箱舟」です。
小説を読み返すことはほとんどないのですが「猛き箱舟」だけは5回は読んでいるはずです。
他には「蝦夷地別件」、「砂のクロニクル」が好きな作品です。

彼の描く物語の魅力は壮大な叙事詩だと思います。
男や民族の誇りや暴力といったものが描かれるのですが、全体としては語り継がれる物語を紡いでいるように感じます。
この叙事詩という感覚は他の冒険小説作家からは感じられないものです。
森詠や北方健三、逢坂剛なども海外を舞台にしたものを書いていますが、船戸のスケールの大きさとは比べ物になりません。

夢中だった船戸の小説ですが、1990年代後半からはそれほど面白いと思わなくなりました。
「蝦夷地別件」を最後に叙事詩のようなスケールの大きさが無くなってきたように思えたのです。
直木賞を取った「虹の谷の五月」も私には特に面白く思えませんでした。
時代の状況もあったのでしょう。
冷静が終了してハードな冒険小説の舞台が無くなっていたのかもしれません。
冷戦に翻弄される民族といった存在が発するエネルギーが薄まり、グローバル化で皆が同じ生活に憧れるような世界になっていくのですから。

しかし最近は再び世界が動いているようにも思えます。
イラク、シリア、イエメン、アフガニスタンの混乱、ウクライナ問題など虐げられた者の負の感情が歴史に再び現れてきたのかもしれません。
船戸には現在の世界状況を炙り出すような冒険小説を書いて欲しかったと思います。

ご冥福をお祈りします。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村

[ 2015/04/25 12:29 ] 雑感 | TB(0) | CM(0)

歴史の密度

最近、歴史の本を読むのはほとんど中世までの本です。
特に現代史にあまり興味を持たなくなりました。

若いころは近現代史の本ばかり読んでいました。
現代の国際体制のもととなるウェストファリア条約あたりからフランス革命、両世界大戦などに興味を持っていました。
戦後の歴史では米ソの核戦略の歴史や中東の紛争などの本をよく読んでいました。

今ではヨーロッパ、中東のローマ時代から16世紀ぐらいまでの歴史、思想に興味を持っています。
アジア圏についての本はあまり読まないのですがこちらも16世紀ぐらいまでが興味の対象です。

なぜ中世に興味を惹かれるかというと自分とは全く異なる世界で生きていた人たちにロマンを感じるからです。
これが近現代史となるとなかなかロマンを感じることができないのです。
現代から近い時代だと自由な想像を働かすことができないからだと思います。

時代が近いということはそれだけ自分の価値観で過去を見ます。
戦国時代の戦であれば戦の悲惨さなど何も感じません。
現代の価値観で善悪などを求めることはばかげています。
しかし例えば明治維新ぐらいになると写真も残っているような志士が活躍した時代です。
どうしても彼らの思想や行為が現代的な価値観に晒されてしまいます。
私からすると第二次大戦なんて大昔の全く縁のない他人たちの事件でありそこに何らかの価値判断を下すようなものではありませんが、現代社会の日中韓のネット系の人や政治家にとっては現代の問題と考えているようです。

そして私が常に思うのは歴史の密度とでもいうべきものです。
歴史を振り返るには資料が必要です。
自然、遺跡、文書、絵画、習慣、習俗、口伝などが歴史を再構成するための資料ですが、現代では映像やネットの情報のようなデジタルの資料が多くなっています。
この資料が多いほど人類の活動をそれだけ拾い上げることができるのだと思います。

古代では利用できる資料が少なく、石器時代だと住居跡、人骨、貝塚のようなもの、自然ぐらいしかありません。
それが現代に近づいていくと資料が増えていき、明治以降であれば一般人であっても日記などを付けるのは珍しくありません。
古代のような識字率が極端に低く、紙などが貴重な時代とは全く異なります。
そして現代ではブログや映像などもあり無限とも思える資料があります。

では資料が多ければ多いほどより正確に歴史を再構成できるのかと言えばそうでもありません。
中世の歴史では少ない資料から推測していきますが、現代の歴史では資料を自分の価値判断で捨てていく必要があります。
戦前に関する正しい歴史を巡って相も変らぬ下らない議論が続いているのを見ればしょせんは自分の価値判断でしか資料を取捨選択できないことが分かります。
結局拾い上げる資料の多さは実はいうとそれほど変わらないのかもしれません。
中世といえどそれなりの量の資料がありますし、人間が処理できる資料などたかが知れています。

私のイメージでは歴史という空間が過去から現代へと流れてきており、そこを埋めるものが現代では空間をすべて埋めてそこからすでに溢れてしまっています。
古代へ行くと空間を埋めるものはほとんどなくスカスカです。
そして中世あたりはほどほどに空間を埋めるものがあるのですが偏りが多くあります。
西欧中世でいえば一番文書を残したのは修道士たちなので偏りがどうしても出てしまいます。

中世の歴史の密度が私には一番心地良く自由な想像を掻き立ててくれます。
そして中世に関する資料で新しい発見があるたびに中世の歴史が書き換えられていくのです。
現代ではせいぜい公文書が公開されたり重要な人物の手記が公開されたりするぐらいで枝葉末節程度の歴史が書き換えられる程度です。

それにしても現代の濃密な情報空間は不思議な空間です。
ほとんどは意味があると思えない言説でもどこかで繋がってきちんとそれらが処理される情報空間が確立されていきます。
このような空間は日々拡大されていきますが、それはこれまでは孤立した個々の頭のなかにしか存在しなかったものです。
果たして1000年後の人たちは情報が溢れた現代をどのような時代として歴史を書くのでしょうか。
これほど情報を生み出す時代の歴史を描くのはかなり難しいことのように思えます。
あるいはもしかすると現代は未来で歴史を語るほどの時代ではないのかもしれません。
すでに同時代に個々人の言説で溢れています。
もう大きな物語が語られる時代はとっくの昔に終わっているのでしょう。
いや中世であっても個人の歴史しか存在しないのかもしれません。
中世では自らを語った言説があまり残っていないため、後世の人間が勝手に大きな物語を描いてきたのかもしれません。
もしかすると歴史のロマンはその時代の密度が薄いためにその隙間を埋めて大きな物語にしてしまうことにあるのでしょうか。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村

[ 2015/04/18 17:00 ] 雑感 | TB(-) | CM(0)
ブログ村
にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
検索フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

相互リンクとコメントを頂いた方