人生の暇つぶし

2016年にリタイアしました。アーリーリタイアや資産運用、旅、読書などのネタを徒然なるままに書き綴ります。

2013年10月のお奨め本

2013年10月に読んだ本の中でお奨めのものを紹介します。

・消費社会の神話と構造(ジャン・ボードリヤール)

最近食品偽装がブームなので再読してみました。
少し古くなってはいますがやはり消費社会についての分析は今でも秀逸だと思います。

現代社会の消費は使用価値や交換価値を超えて差異を飽くことなく追及するコードの体系に変貌しています。
この差異を増幅するプロセスはあらゆるところで発生しています。
メディアや広告だけでなく、ヒッピー、芸術、余暇、医療、性行動などでもコード化され、差異化されます。
そして様々な批判をも統合し消費自体が神話となり、審級が存在しなくなったのが現代社会と言えます。

しかしこのように全てを記号へと還元することに果たしてどれほど意味があるのでしょうか。
そしてシステムから逃れる不可能性を述べることからはシニカルな態度しか生まれないように思えます。
システムに組み込まれた存在が人間である以上、システムは人間の存在の前提です。
システムが変わっていくときに、そしてそれを人間がコントロールできないとしたら、そのシステム内のどの位置にいるべきかを個々の人間は考えるべきではないでしょうか。
そうでないと本書のようにただシニカルな態度をとることしかできません。
そしてそのようなシニカルな態度も一つの記号として統合されるのだという自虐的な態度の無限ループに陥ることになります。




・クライマーズ・ハイ (横山秀夫)

北関東新聞の遊軍記者、悠木は御巣鷹山の日航機事故で全権デスクを任されることになります。
その日は同僚の安西と谷川岳衝立岩に登る約束をしていた日でしたが、悠木は後に安西がくも膜下出血で倒れて意識不明の重体であることを知ります。
悠木は過去に部下を亡くした負い目を背負い、家族との関係にも葛藤を抱えていました。
社内を渦巻く様々な思惑が交錯する中で全権デスクとして悠木の濃密な一週間を描いています。

著者は上毛新聞の記者として日航機墜落事故の取材経験があります。
新聞の紙面が出来上がっていく過程、編集と広告、販売の対立、政治家との関係などどの程度現実なのかはわかりませんが迫力があります。

ストーリーは悠木の家族関係や安西が衝立岩に登ることに誘った意味など重層的に進んでいきます。
それが深みを増しているともいえるのですが、私としては編集の現場での濃密な時間に焦点を当ててほしかったと思います。
少しテーマがぼやけているように思いました。




・十八の夏 (光原 百合)

ちょっとした謎と伏線をちりばめて切なさや甘酸っぱさを感じる短編ミステリが4編入っています。
主に恋愛ものですが、恋愛そのものよりは人の心の機微を描いています。
日常的な出来事、と言ってもどちらかというと非日常的な出来事ですが、こういうところからもミステリを紡いでいくスタイルは面白いです。

男性であれば登場人物の心模様がうっとおしく感じることもあるでしょうが、独特の透明感のあるミステリを楽しめる一冊です。



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[ 2013/11/23 16:02 ] 今月のお奨め本 | TB(0) | CM(0)

偽装なんてなかった

前回の続きを少し。

偽装は非常に現代的で面白い現象です。
通常偽装は経済的価値を偽ることによって利益を得る行為です。
バナメイエビを芝エビを偽って料理を提供するとき原価はバナメイエビ、売価は芝エビで売ることにより利益を得ます。
ヴィトンのバッグの偽物も安い原材料から作ったものを本物と偽って売ることにより利益を得ます。

しかしこれはあくまで経済的価値の観点からの話です。
使用価値から考えるとどうでしょうか。
バナメイエビを芝エビと信じて食べたときそれは芝エビを食べたことにはならないでしょうか。
モノとその名前は思っているほどは強固な結びつきを持っていません。
現代社会ではそれらはとっくに分離しており名前のほうが重要性を持つのです。
なのでエビを食べたときにそれがバナメイエビか芝エビかを判断する能力がない人は名づけられたものをそのまま受け入れるしかないのです。
そのエビが芝エビだといわれたとき、バナメイエビという物理的存在と芝エビという名前を結びつける関係性の世界にいるのです。
命名自体は食べるという行為には本来ならば何の影響を及ぼすことはありません。
美味しいか、美味しくないかを判断して、自分が払った金額に見合うと思うかどうかだけのことです。

モノを食べたり、使ったりするという使用価値とそのモノのイメージを消費するということは別のことなのです。
バナメイエビを芝エビと偽って出された料理を食べた人はやはり芝エビを食べたのです。
後から実はそれはバナメイエビだったと言われたときに初めてバナメイエビを食べたのだというもう一つの出来事が作られるのです。
過去に芝エビを食べたという意味が現在においてそれはバナメイエビだったという意味の操作が行われるだけで、両者の出来事は両立しています。
当然のことながら料理を食した事実そのものには何ら影響はありません。
芝エビでないと知ったとき、食べた時点まで遡って味が変わることはありません。
あくまで意味の操作だけの問題です。

そうは言ってもやはり芝エビと偽られたバナメイエビを食べたのだというかもしれません。
たとえその人がエビの種類の区別ができなかったとしても物理的にはバナメイエビなのですから。
ではバナメイエビと区別できる人が生産者から調理者まで全員がいなかったとしたらどうでしょうか。
バナメイエビの和名が芝エビと信じていた人がいるらしいので有り得ないことではありません。
そして死ぬまでバナメイエビを食べたことに気づかないときはやはり芝エビを食べたことになるのです。
歴史や記憶は言説でしかないのですから。
芝エビを食べたという言説はイメージの操作でしかないのですから。
イメージには物理的根拠など必要ないのです。

確かにバナメイエビと芝エビは物理的に違うものだという証明ができるでしょう。
ではヴィトンのバッグはどうでしょうか。
ヴィトンのバッグを製作している職人が勝手に全く同じバッグを作ったとします。
しかしヴィトンから販売されないとそれは偽物です。
物理的には完全に等価であるので使用価値も全く等価であるはずです。
しかしそれはヴィトンではありません。
ヴィトンというイメージ、バッグの背景にあるストーリーはヴィトンが販売することで完成するものだからです。

現代社会はモノの背景にあるイメージを消費するようになっているのです。
そこに使用価値が入り込むことは難しいのです。
もしかすると私はバナメイエビと芝エビの味の区別がつくというかもしれません。
その場合は使用価値により消費しようとしているのです。
そんな人でもダイヤモンドや絵画の種類を区別できたり、あるいは数学の難しい方程式の証明が正しいかどうかはおそらく判断できないでしょう。
現代の社会で様々なモノが産出されるようになりさらには誰もがアクセス可能となったとき、使用価値よりもむしろイメージが消費されるようになったのです。

今回は食品が偽装であることを暴かれました。
しかしながらそこでは味そのものの存在は無視されています。
なぜなら味は変わらないからです。
単に芝エビからバナメイエビへと意味の転換が起きただけです。
これは果たして偽装なのでしょうか。
イメージを消費するときには実体に意味はありませんし、逆に実体がイメージを存立基盤とします。
換金性のあるもので実際に換金しようとしたときにはじめて偽装という現象が現れてくるのです。
やはり偽装はなかったのです。
あったのは芝エビを使った料理というイメージの消費です。

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[ 2013/11/16 09:33 ] 社会 | TB(0) | CM(4)
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