人生の暇つぶし

2016年にリタイアしました。アーリーリタイアや資産運用、旅、読書などのネタを徒然なるままに書き綴ります。
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自己責任と自由と運命と

生活保護、投資、不摂生な生活、登山や危険な国へ行くことなどの話題で必ず出てくるものに自己責任という言葉があります。
意味は個人の自由な選択による行動の結果は自分で引き受けなければいけないというものです。
逆に言うと自由な選択でない行為による責任は引き受けなくてよいということです。
もっと積極的に解釈すると個人の自己責任でない部分では社会や誰かに対して何らかの救済、補償を求めることができるということです。

現代社会のように個人が確立されるまでは個人に降りかかる全てのことは自分で引き受けなければいけませんでした。
社会を安定させるために犯罪を抑止するシステムや社会的弱者に援助するシステムはどの時代、文化にも見られると思いますが、あくまで社会が一方的に与えるものであって個人の権利ではありませんでした。

現代では個人が自己責任を超えたところの被害や不利益については積極的に救済や補償を申し立てられることが認められるようになっています。
国家は国民に健康で文化的な生活を提供する義務があり、国民はそのような生活が困難なときに国家に生活保護を要求できます。
子供がいじめによる自殺をしたときにその因果関係を認められれば、被害者遺族は学校やいじめの加害者に自殺に対する賠償を請求できます。

しかし生活保護を要求すると言ってもその個人が相応の努力をしていないと自己責任を満たしていないともいえますし、常識的に自殺するほどのいじめではない場合は積極的に自殺を選択したということもあります。
無制限に個人の要求を認めることはできないので自己責任という概念が生まれるわけです。

自己責任の範囲を社会でコンセンサスを得るのは非常に難しいことですし、文化によっても大きく異なります。
つい最近までは過労による自殺の因果関係はなかなか認められませんでしたし、鬱病も単に怠けているとみなされていました。
また一般的にはアメリカは日本より自己責任の原則が重視されていると言ってよいでしょう。


さて、自己責任が成り立つのは個人に選択の自由があるという想定があるからです。
しかし本当に個人に選択の自由などあるのでしょうか。

五体満足だけどどうしても働きたくないという人は働くという選択が精神的にできないのかもしれません。
犯罪を犯したのは家庭環境のせいであって犯人には他の選択肢がなかったのかもしれません。
ギャンブルにハマって借金を抱えたのはその人の脳の構造に問題があったのかもしれません。
脳の構造のおかげで人に暴力を振るうのかもしれません。

そして現代科学は自己責任を問えない方向に進めているように思います。
ギャンブルにはまる人の脳の動きはある程度分かっています。
人の性格や才能と脳や遺伝子の関係も少しずつ分かってきています。
私の友人は鬱病などの疾患を持つ人の遺伝子の働きを研究しています。
人の行動が脳の仕組みや遺伝子の発現といったことで解明されていくとしたら、それは人に選択の自由があることを否定していくことになります。
つまりあらゆることに自己責任を問えなくなります。
研究者は慎重に遺伝子と環境の半々で人の性格や能力が決まるといいますが、その環境を最初に用意するのは両親であり、両親の環境を最初に用意するのは祖父母です。
これは遺伝子で性格や能力が100%決定されるといっているのと同じことです。

このように脳や遺伝子といった身体的な問題であるとし、自己責任を問えない社会になっていくとどうなるのでしょうか。
働きたくない人は働かなくてもいいのでしょうか。
私にはそうは思えません。
自己責任を問えないのは身体的な問題だからです。
身体的な問題であれば治療と排除の考え方が出てきます。
これは優生学と変わりません。
一つの規範から外れた人間は治療すべき存在とされ、遺伝子が劣った人間は生まれることすら許されないかもしれません。
出生前診断の技術の発展によって中絶が増えているという厳然たる事実もあります。
もしかすると生活保護を申請した場合は検査が行われ最初に治療が必要かどうかを調べられるのかもしれません。
そして正しい生活を送る人間に作り変えられるのです。
自己責任の範囲が狭まるということは多様な個人や自由な選択を許さなくなるということです。
そのような社会は私のような人間には息苦しくて仕方がなさそうです。
自己責任の範囲が広がるということは個人の主体性が広がるということが言えるのではないでしょうか。

ここまでは個人が社会的規範に従る能力があるかというレベルであり、規範から外れない限りでは選択の自由は確保されています。
しかしもっと推し進めて自由意志を否定してしまうととどうでしょうか。
宇宙の誕生から終わりまで全ては物理的に決定されていることになります。
あるいは全知全能の神が全てを予定しているということになります。
ここまで来ると人は全てが運命に支配されていると考え、刹那的で投げやりに生きるかもしれません。

キリスト教やイスラム教など多くの宗教はこの問題と格闘してきました。
神に祝福されるかどうかは意思に関わり無く決まってしまっているのだとしたら、信仰に意味があるのでしょうか。
そこはあたかも精神の無いロボットの世界にも思えます。

しかし私たちは直感的に自由意志を持っていると考えています。
おそらく私たち人間は時間の概念を持っているからだと思います。
過去を想起することによって実際に選択した行動とは違った選択をできたかもしれないと想像できるからです。
実際には選択の自由が無くても選択の自由があったと想定できるのです。
信仰生活も同じです。
信仰者の人生が神によって予定されているとすれば、信仰者は神に祝福されたと信じて善き生活を送るほかありません。
そして善き生活を送ること自体が神に祝福されていることの証明となるのです。

私自身がどう考えているのかというと全ては運命のなすがままと考えています。
自分では自由を何よりも大切にしているようでいて、実は自分の身体と社会の状況が勝手に私の人生を決めてくれてます。
私はずっと自分の人生は自分の責任で選び取っていきたいと考えていると自分では思っていたつもりです。
けれど過去を振り返ってみても違った選択があったとか、あの頃こうしておけば良かったと思うことがないのです。
もちろんこれからもリタイアするなどの重要な選択が待ち受けています。
しかしそれもなすがままとしか思えません。
ただひたすら私を取り巻く状況にしたがって生きていくだけで、何となく死んでいくだけのことかなと思っています。

おそらく私は自己に対する責任が感じられなくなったのです。ほとんどの人は自己の代わりに他者に対して責任を見出すようになるのではないでしょうか。
家族、特に子供に対する責任を感じるようになるのでしょう。あるいは医者のように他者に責任を想定できるような人もいるかもしれません。
私の場合は自己に責任を感じられなくなったので人生の目的もなく残りの人生は暇つぶしなのです。

結局自由意志などあろうがなかろうがどちらでも変わりません。
自由意志があれば選択するのみです。
運命に縛られている場合は自分の選択によってその運命を証明するのみです。

私は直感的に感じることができています。暇つぶしであってもこれからの人生もそれなりに楽しそうだと。
私の場合はそれなりに楽しい人生を与えられたと想定してなすがままに生きて、そしてやはり私の想定は正しかったと証明しながら生きているのです。
そしてその証明を評価するのは見ず知らずの他人ではなく私自身です。

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[ 2013/02/03 14:03 ] 人生 | TB(-) | CM(2)
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